かっぱの書棚

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大丈夫

 

天気の子 complete version (完全生産限定BOX)(CD+DVD+ARTBOOK付)

天気の子 complete version (完全生産限定BOX)(CD+DVD+ARTBOOK付)

 

 

「大丈夫」という2019年を代表する名曲がある。2019年の邦画の興行収入第一位の映画「天気の子」の挿入歌の一曲。つい先日、complete versionということでフルバージョンを収録したCDが発売されたわけですが、こいつの歌詞がまた最高にイカしてるので今日はその話ができればと考えております。

 

 

2019年の映画で何が良かったかと訊かれたら「天気の子」と答えてしまうのは仕方ないと思ってしまう。それくらいに今このタイミングで映画化されたことに、とても意味を感じることができるような作品になっているし、この映画のことが好きだと言ってくれる人が一人でも多ければ、この世界もまだまだ捨てたものじゃないなって思える、そんな「令和」を代表する映画と言って過言じゃないと思う。

 

そんな「天気の子」でクライマックスからエンドロールに入るまでの大事なシーンをこの曲が担っている。たしかに空の上で二人の再会を祝うようにして流れるグランドエスケープの存在感はあまりにも計り知れないし、理屈や設定を初めとした計算を上回るだけのパワーがあの合唱パートには秘められてると思うし、初めて聴いた日には鳥肌が止まらなかったことを憶えている。

 

ただそれでも天気の子の楽曲の中で好きな曲はなんですかと訊かれたら、間違いなく「大丈夫」であることを声高に僕は叫ぶと思います。帆高と陽菜という二人の関係性に感情を投影した身としては、それくらい映画の中で外せない名曲だと感じていたり。

 

僕は「君の名は。」を見たときに「前前前世」の一発で心を掴みにくる爆発力や、物語に深く寄り添ってくれる「スパークル」が名曲であることはどうしても否定できないなと感じた。

 

ただそれでも、今まで見たアニメ作品の中でも指折りと呼べるくらいの、最高の幕引きから流れる「なんでもないや」に心を動かされた衝撃には敵わないと思ってしまう。その場に描かれていないのに、奏でる音が、紡がれる言葉が、音楽として代弁する構図をたまらなく美しいと感じる瞬間だ。

 

おそらくこれに肯定してもらえる人は、今回も僕と同じ気持ちを抱いているのではないかと勝手に思っていたりするわけで。なんでもないやだと例えばここ。

僕の心が僕を追い越したんだよ

このフレーズがたまらなく好きなのだ。わかる人だけ心の中で「いいね!」を押してもらいたいところなのですが、なんだろう、作品の中ではそんなこと一度も言っていないのに、まさしくその作品を体現するようなフレーズにメチャクチャ弱いのです。

 

タイアップ曲はその作品に寄り添っていなければいけないという強迫観念は意識的にも、無意識的にも存在するものだと思います。それを否定する気持ちは欠片もないのだけれど、その作品に寄り添いすぎた曲を僕は何曲だって知っている。それって非常に勿体ないことだと思う。寄り添いすぎたことで、作品の要約になってしまったことで、その作品をもっと大きく膨らませたかもしれない可能性を失ってしまった曲たち。

 

そういう意味でRADWIMPSはすごいことをやってのけているのだと僕は感じています。

 

さてさて、それではそろそろ「大丈夫」の話をしていきたいのだけれど、フルバージョンを聴いて僕が特に感銘を受けたのが2サビ以降の展開だったりします。映画バージョンの「大丈夫」も紛うことなき名曲なんだけど、"決意"が唐突すぎる印象を受ける部分は確かにありました。

 

天気の子のストーリーを追いかけているからこそラスサビのあの結論に至るのはわかるでしょという言い分は勿論あって、それは重々承知しているのだけど、それでもフルバージョンを聴いたときに「そうだよ、これだよこれなんだ!」ってなった人は多いんじゃないかなあって。

 

君にとっての「大丈夫」になりたい帆高の頑張りって、きっと不器用で、拙くて、背伸びをして、遠回りだけど気持ちだけはまっすぐで、そんな情景を「天気の子」が好きな人って容易に想像できたと思います。

 

フルバージョンではそこが補完されているから、こんなにも美しいのだと感じました。

 

時の進む力は あまりに強くて
足もつかぬ水底 必死に「今」を掻く

 

足掻けど未来は空っぽで いつも人生は
費用対効果散々で 採算度外視、毎日

1Aの歌いだしのフレーズ。ここはMovie verにはなかったフレーズなんだけど、非常にRAD WIMPSらしい一節だなと初めて聴いたときに感じた。

 

日本にはやりたいことがわからない若者が多くいる。それはどうせ無理だと諦めている人もいれば、成功体験の機会を得られず自分に何ができるのかもわからない人であったり、多種多様だ。

 

それでも、どんな人にも時間の流れだけは平等に与えられ、向かう先も現在地もわからないまま必死で今を生きるしかない現実が歌われている。

 

この曲はまさしく帆高から陽菜へと贈る曲であることは、天気の子の本編を見れば誰でも想像がつくものだ。けれど、このフレーズが足されたことで一気に『僕らの歌』であることが強調されている。

 

ここで触れておきたいのは天気の子は他人事の映画じゃないということ。これは僕らのための映画だ。たとえば、帆高が家出をした理由が明確に描かれない。お金もなく島から東京へと上京してきた説明も、満足に描かれないまま物語はどんどんと進む。

 

最初こそ尺を意識したものかと邪推してしまうけれど、映画が終わるころには納得してしまう。帆高は現実世界を生きる僕らなのだ。だから理由は何通りだってあっていい。見た人が現状で抱えてる悩みを当て嵌めてもいいし、身近な人の心に棲みついた葛藤をはめ込んだっていい。

 

明確に描かないことで天気の子を誰かの映画にしなかったのだ。

 

そこを踏まえてこの曲を聴くと納得する。現実世界で苦しみを覚えながら生きてる僕らがそれでも一緒に生きようぜって誰かに投げかけるための歌なのだ。

 

必死で生きたいけど、目指すべき場所が見つからず、なんとか生き繋いでも眩しいくらいの未来なんて見つからなくて。生きるために時間を浪費する。きっと現代で生活をする僕らには痛いくらいに身に覚えのある感覚だと思う。

 

僕はただ流れる空に横たわり 水の中
愚痴と気泡を吐いていた だけど

そんな現代で流されながら生きているんだから愚痴だって吐いてしまうし、誰かの悪口だって零してしまうかもしれない。水の中をさまよう気泡のように取るに足らない言葉の群れ。

 

だけど。

1Bの最後は逆説で終わるんですよね。ここがまたいいなって思う。

 

 

世界が君の小さな肩に 乗っているのが
僕にだけは見えて 泣き出しそうでいると

 

「大丈夫?」ってさぁ 君が気付いてさ 聞くから
「大丈夫だよ」って 僕は慌てて言うけど

 

なんでそんなことを 言うんだよ
崩れそうなのは 君なのに

ここからは一気に天気の子の映像が頭に呼び起こされると思う。帆高と陽菜さんの絵だ。陽菜さんが世界の命運を肩に背負っているのは本編を見れば誰だってわかることだ。

 

それでも、そうなることがわかっても、自分の選択がともすれば間違っていることがわかっていても、二人はひとつの答えを選んでしまった。 

 

その重さは彼女だけが知っているもので、どこまでいっても帆高じゃ理解できないもので、自分の無力さを思い知った彼の心情を切り取ったこの上ない歌詞だったように思う。

 

またそれと同時に年上ぶって帆高のことを弟のように扱う映像が容易に想像できるのもポイントが高い。

 

ただ、ここまでは劇場で確認することもできたパートになっていて、いわば前哨戦だ。2サビからが本領発揮と言える。

 

世界が君の小さな肩に 乗っているのが
僕にだけは見えて かける言葉を捜したよ


頼りないのは 重々知っているけど
僕の肩でよかったら 好きに使っていいから


なんて言うと 君はマセた
笑顔でこの頭を 撫でるんだ

フルになって2サビとして追加されたのがここ。もう最初のフレーズからいい。

 

1サビでは「泣き出しそうでいた」帆高がとうとう「かける言葉を捜す」わけだ。これって帆高の確かな成長ですよね。それはきっと映画では描かれなかった空白の時間が彼をそうさせたんじゃないかって脳内で補完できる。

 

経験を糧に年を重ねた。以前に比べて出来ることも増えて、社会的立場という意味でも自立することができた。

 

でも、これだけ成長しても自分が頼りなくてしょうがないことを帆高は知っているんです。人は天気を自在に操ることなんてできない。神の気まぐれに立ち向かうことなんてもってのほかだ。

 

それでも肩を貸すことくらいならできる。疲れてしまったときにちょっと支えるくらいなら僕にだってできるんだよって帆高の踏み込みすぎず、それでも君の隣にいたいという不器用な心根がこれでもかと読み取れるんです。

 

で、これまたズルいのが陽菜さんは「マセた笑顔でこの頭を撫でる」んですよね~~。こんなシーンなかったのに、見ていないはずなのに、情景が容易に頭に浮かぶ感じ。洋次郎、天才かよと。

 

取るに足らない 小さな僕の 有り余る今の 大きな夢は
君の「大丈夫」になりたい 「大丈夫」になりたい
君を大丈夫にしたいんじゃない 君にとっての 「大丈夫」になりたい

このフレーズを踏まえて展開されるこのパートの歌詞の重みは一曲を通して聴かないと話にならないと思った。

 

 

 

世界が君の小さな肩に 乗っているのが
僕にだけは見えて 泣き出しそうでいると

 

「大丈夫?」ってさぁ 君が気付いてさ 聞くから
「大丈夫だよ」って僕は 笑って言うんだよ

はっきり言ってここもまたエモの塊だ。

同じサビメロのリフレインとしてさらっと流してしまいそうになるけれど、最後の一節で帆高は笑って「大丈夫」だと返すのだ。

 

これは頼りなくてしょうがなかった帆高からの脱却であり、陽菜さんを背負っていく覚悟を決めた男の言葉だ。

 

何が僕らに降りかかろうとも
きっと僕らは「大丈夫」だよと
僕は今日から君の「大丈夫」だから

ここはもはや言うまでもない。触れることさえおこがましい。

 

この歌詞はおそらくこの映画を見た誰もが求めていたひとつのハッピーエンドの形なんじゃないかって。僕はそういう風に思う。

 

この曲を聴くとふと自然と「天気の子」を改めて見直したくなる自分がいる。

 

今は多様性を求められる世界だ。かつては右に倣えを叩きこまれた世界が変わろうと藻掻いている過渡期と呼んでもいい。だけど人と違うことをするのは恐ろしい。人の顔色に伺いを立てて自分の行動を決めたくもなる。

 

でもそうじゃなくていいんだよ。自分が幸せになるための選択肢を君は採っていいんだよ。君の幸せは他の誰かじゃなく君のためのものであっていい。そう優しく背中を押してくれるこの作品が僕は大好きだ。

 

だから初めて見たその瞬間から僕はこの作品のことを敬意を込めて「令和の作品」だと呼んでいる。

 

また、予定通りなら三年後。新海誠は新作映画を引っ提げて衆人環視の前に現れるだろう。彼が次作でどんな物語を描いて僕らの心を震わせてくるのか、今から楽しみでならない。